日顕寺の沿革

日顕寺は釜石市の南方・上平田ニュータウンにあり三方を山に囲まれ、東方に太平洋を遠望する閑静な地にあります。

太平洋から昇る朝日を望むことができる場所にあることから、寺号を日顕寺と致しました。元旦に初日を居ながらにして観ることもできます。
昭和51年に開かれた歴史の浅い寺ですが、信仰の歴史は遠く江戸時代にから続きます。古来平田の地に関西(一説には比叡山)から来た僧侶がこの地での布教の始めであり、この地で病没したものの信仰心は残されました。明治時代になり釜石で法華経の布教道場が出来、平田からも法話を聞くために船で通っていました。

後に釜石の布教所が、千葉県より仙寿院を移築して寺院として整備され、平田住民の要請によって、仙寿院から平田に布教が続けられました。
昭和30年より、平田地域の信者の要望が強く、仙寿院第7世芝﨑惠璋師はその懇願を受けて、昭和51年4月28日、地主の故猪又市之助翁の寄進もあり現在の地に仙寿院の分院として新寺を建立し、霊照山日顕寺と寺号を定めました。

当山には生髪の鬼子母神が祀られています。仙寿院の東京在住の信者が新寺が建立されたことを聞いて、総高二尺七寸の生髪鬼子母神を寄進されたものです。江戸時代の作であり、永く東京・深川の芸者さん達の信仰を集めていましたが、縁あって日顕寺に遷座されました。芸者さんの生髪が頭上に使われた鬼子母神であり、大変珍しい仏像です。その為か女性と子供たちの参詣が絶えません。毎年6月に例大祭が行われております。

日蓮宗は、鬼子母神を祈祷の守護神として祀っております。仏説にある鬼子母神は元来子供を食い殺す悪鬼でしたが、お釈迦様に諭されまして法華経の信仰者を護る誓願を立てられました。このことから後に法華経による祈祷の守護神として祀られています。

日顕寺の鬼子母神は、深川花柳界にあって代々芸者さん達が護ってきましたが、それらの人々がいなくなってきたことから、仙寿院の住職に相談が持ち掛けられ、日顕寺への遷座となったものです。

生髪は明治時代のものでしたが、痛みが激しいことから平成14年新しいものに取り替えられました。その時も仙寿院の東京在住の信者が自身の80㎝もの黒髪を寄進され、仏師により鬼子母神の生髪として整えられております。

開山の芝﨑師は、本山妙顕寺の貫主として晋山されましたが、日顕寺はそのままに多くの信者の信仰心で支えられ続けています。

日顕寺は国道45号線平田交差点から西に車で2分。三陸鉄道平田駅からは西に徒歩10分の所にあります。